私家版・にじさんじ文化論

 「箱モノ」というジャンルがあります。

 ライブやそれに付随するカルチャーを一纏めにした用語らしいです。私が所属する組織において、この「箱モノ」を研究している方がいらっしゃいます。

 熱意のある方で、組織をうまく経営し、そういう組織経営をする人って性格がまずい人が多いわけですけど、そういうこともない。むしろ素晴らしいお方です。尊敬します。

 その人に触発されて、また日頃の恩返しのつもりで、私も「箱モノ」系で一本書くかと発起しました。その方も知見は多い方がいいだろうと思いますし。(私的な「箱モノ」の考えもまとまりますしね)

 そういう恩義とか私情とかが合わさってできた小論です。そんな経緯ですから急でありまして、参考文献も註もつけてございません。(何しろその方が論文を発表されて、すぐ返信するというスピード感が大事だったのです)

 内容はvtuber集団「にじさんじ」の文化論的分析と「箱モノ」カルチャー論です。ではどうぞ。

 


 (その方の論文を読んで感動したが)私は全くといっていいほどこの分野の知識を有していないために、内容面での感想を述べることができません。ライブ自体には折々赴くのですが、その一連のものを「箱モノ」ということさえ存じ上げませんでした。
 ですが、私は文化論的側面からなら、「箱モノ」とデジタルチャーコンテンツの関係を述べることが可能です。私が持つ文化論の知識もささやかなものに過ぎません。だからお力添えになるかわかりませんが、微力は尽くしてみようと思います。
 先日幕張メッセで開催された『にじさんじmusic festival』は記録的な成功を収めました。ふつうのライブ・バンドでさえ、いまや景気低迷、観客を集めることに苦慮しています。そんな中『にじさんじmusic festival』は幕張メッセを埋め尽くしました。デジタルコンテンツは最近のトレンドであるとはいっても、これは瞠目の事実であることに変わりはないと思います。
 この驚愕する事実を、ただ今までと同じく、その内部的コンテンツ性に依拠して分析することは可能です。ライブ・バンドの音楽性や「箱」の立地条件を考察することには、もちろん多大な意味があると思います。
 しかしながら、私はこの成功要因をその内部的コンテンツに留めることに疑問があります。内部コンテンツを解析の主な要素にすることは、従来の分析方法をそのまま流用することだからです。新世紀的な装いをもつデジタルコンテンツにたいして、既存の価値観はあまり役に立たないと思います。すなわち内部コンテンツではなく、外部コンテンツに目をむける必要があると思うのです。
 その外部コンテンツとして、私は文化的様相を挙げたいと思います。コンテンツの内包部に製作者が意図したコンテンツやスタジアムの立地条件を、その外延部に反意図的な文化的コンテンツを制定することが、その内外の概念を把握する上で自然だと思うからです。
 さらに、とりわけvtuber集団「にじさんじ」は現代のあらゆるネット文化のなかで特異な性質を有します。その特異性が、「箱モノ」のイベントに関わっていないとはどうも考えにくい。
 「にじさんじ」の文化的特性を略述すると、「にじさんじ」は他のyoutubeコンテンツと違い、生放送のコンテンツ作成に主眼を置いているのです。
 生放送コンテンツは通常の動画コンテンツとは一線を画します。生放送コンテンツは①製作者の意図とはズレる可能性があること②演者と鑑賞者がインタラクティブな関係にあること、これらの特異性を抱えています。
 ①にかんして言えば、それが静止的な創作物でないことが大きな原因です。小説や生放送でない作り置きの動画であれば、何度でも(時間を無視して)作り直すことが可能です。この表現形式にはつまるところ現実的な時間感覚に惑わされることがないのです。これは表だけ考えれば、なかなかメリットであるように思えます。
 しかし、この作品形式にはリアリティの欠如というデメリットが存在します。実際の時間を崩すわけでありますから、その時間の繊細さに気を遣わなければすぐさまリアリティの瓦解の繋がります。これはメリットを上まわるデメリットであると、言うことができるかもしれません。
 生放送コンテンツは、いわば時間の工芸を行わないことで、容易にリアリティを得ることができます。そのまま、ふだんのわたしで放送していれば動画的リアリティを獲得できるのです。
 こうした特徴を「にじさんじ」は実にうまく扱います。デジタルコンテンツ・2.5次元の性質と先程の①製作者の意図とはズレる可能性があること、つまり生放送的リアリズムを掛け合わせることで、2.5次元にたいして、言ってみれば超越論的リアリズム(現実的ではないのに、それがリアリズム的であること※いま勝手に作った言葉です)を与えます。これはなかなかできることじゃないです。
 ②演者と鑑賞者がインタラクティブな関係にあること、これは前項のつけたしです。
 生放送的リアリズムは極簡略的に述べれば、ただの現実であるということです。現実は、わたしがいて、あなたがいて、世界があって、そういう当たり前の集積があって初めて実感できるものです。
 これに即して言えば、わたしは製作者です。そしてあなたが鑑賞者に当たります。さらに付け足すと、世界の役割を果たすのは生放送的リアリズムです。
 つまり②演者と鑑賞者がインタラクティブな関係にあることとは、生放送的コンテンツを一つの小宇宙にしようとする試みのことです。私はこれを究極のリアリズムと呼ぶべきことだと思います。
 
 これらの文化的特徴が幕張メッセという「ハコ」に合致したからこそ、私は『にじさんじmusic festival』は大成功を収めたと思うのです。
 この生放送リアリズムは、〇〇的リアリズムとか言ってますけど、所詮動画という虚構のなかの出来事に過ぎません。言ってみればお遊びの域を出ないのです。
 お遊びなんです。どこまで行っても真剣になれない。オタク的迷妄。
その「お遊び」を、現実の物事へ移し替える役割を行ったのが幕張メッセという「ハコ」なんじゃないかと考えます。
 これは換喩してみれば分かりやすいと思います。だから、ここでは神社の例をあげて説明します。
 神社は神を降ろすために作られた装置です。木々を見下すようにして聳え立つ鳥居、神の声を聞く巫女。日常であるケのとき、これらは直接なにかの役に立つわけではありません。
 神社が真価を発揮するときは、ハレのときです。具体的にしめせば、祭り(festival)です。
 祭りのとき、神社は現世的な風態を捨て去ります。聳え立つ鳥居は現世と幽界を区切る境目となり、巫女は神を降ろす舞をします。祭りに集った人々は種々折々に浮世の振舞いをします。どんちゃん騒ぎのことです。
 そして人々の喧騒が満潮に至ったころ、神はその姿を表すのです。
 人々のハレ、神社のファンタズムが重なったとき、神は現れます。それは、あるいは幻覚ということも出来ましょうが、私はそれこそが神なのだと思います。
 神社はこのようにして神を降ろします。これと同じことが幕張メッセという「ハコ」で起こったのではないかと思うのです。生放送的リアリズムをケに、『にじさんじmusic festival』をハレにして考えると、つながらないでしょうか。
 ふだんの虚構のうちでのリアリズムをケとする。ハレは『にじさんじmusic festival』。そしてここで考えなければならないことは、神社においての神のことです。
 それは、私の結論でありますが、「形容詞のつかないリアリズム」のことではないかと思います。
 虚構的リアリズムから真のリアリズムへ至るために、「ハコ」を利用した。『にじさんじmusic festival』に集った大勢の人々と、祭り(festival)の異様な熱気。そこにリアリズムという神が乗り移ったのではないだろうか。
 そういう文化論的、民俗学的アプローチがただしく機能したからこそ『にじさんじmusic festival』は成功したんじゃないか。そしてデジタルコンテンツの「ハコ」ものイベントは多かれ少なかれそういう傾向があるんじゃないか。
 これが私が語りうるデジタルコンテンツと「箱モノ」の文化論的関係です。長文失礼しました。